身近な粉で「あせも」の治療
あせもは、ほとんどの赤ちゃんに一般的に見られる症状で
◆なく声の大いなるかな汗疹(あせも)の児 高浜虚子
と俳句にも歌われています。
このあせも対策として、米、小(xiǎo)麦、蕎麦など身近にある粉をふりかけ、ためしてみようという多(duō)くの試みが江戸時代に行われていたようです。
江戸時代の女性の心得を記した往来物(wù)(現在の教科(kē)書に相当)である『女用(yòng)訓蒙図彙』(1687年)には、あせものくすりとして「はまぐりがいをやきて、うどんの粉と粉まぜて布につつみて、ふるいかけてよし」というような記述があります。
また、江戸時代の代表的な育児書である『小(xiǎo)児必用(yòng)養育草(cǎo)』(1703年)には、「…牡蠣粉、或いは葛の粉又(yòu)は天瓜粉(天花(huā)粉)をすり塗りたるがよし、かくのごとくすれば夏はあせぼを生ぜず、いずれも皆粉を随分(fēn)細かにしてぬるべし…」と記載されています。
このように、江戸時代には、生活の知恵として乳児の入浴後には米粉、牡蠣粉、葛粉、天瓜粉(天花(huā)粉)、ひき茶などの粉を使うことが広く行なわれていました。さらに、『小(xiǎo)児必用(yòng)養育草(cǎo)』では、米粉は虫がつくのでよくない、牡蠣粉や葛粉、天瓜粉(天花(huā)粉)などがよい。あごの下、股の付け根、脇の下がただれている場合には、入浴後、天瓜粉(天花(huā)粉)などをすり塗るとよいなど、かなり詳しく解説がなされています。
明治時代になってもあせもの治療には、葛粉、ひき茶、小(xiǎo)麦粉、蕎麦粉などの粉が使われていたことは、『育嬰草(cǎo)』(1877年)などの育児書等からもうかがえます。明治中期になって初めてシッカロールの有(yǒu)効成分(fēn)である亜鉛華(酸化亜鉛)の記述が出てくるようになり、明治後期には、亜鉛華澱粉が幅広く使われていたようです。
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- (小(xiǎo)児必用(yòng)養育草(cǎo):加藤翠先生蔵)
天瓜粉(天花(huā)粉)とは?
『小(xiǎo)児必用(yòng)養育草(cǎo)』(1703年:香月牛山(shān)著)にも記述のある天瓜粉(天花(huā)粉)ですが、これは、ウリ科(kē)のキカラスウリ(天瓜)の根からとった白いでんぷんのことをいいます。そのでんぷんは水分(fēn)をよく吸い取るので、その吸湿性を利用(yòng)してあせもの治療に用(yòng)いられてきました。その粉末が雪(xuě)(天花(huā))のようにサラサラしていることから、天花(huā)粉と呼ばれています。
【キカラスウリ】
多(duō)年草(cǎo)のつる草(cǎo)、葉は毛がほとんどなく光沢がある。花(huā)は夕方に咲き始め、翌日の昼前にはしぼんでしまう。
花(huā)弁のレース状の切れ込みは花(huā)をより大きく見せて昆虫を呼び込むため。果実は黄色で10センチ程。
天瓜粉(天花(huā)粉)ということばは、夏の季語にもなっており、多(duō)くの俳句が残されています。
◆ やや鼻の低きが愛嬌天瓜粉 長田有(yǒu)旦
◆ 天瓜粉まみれの孫をすくひあげ 田中暖流
◆ 子につけて吾にも匂ふ天瓜粉 土井糸子
◆ 寝返りをさせて泣かせて天瓜粉 佐々木(mù久菊
◆ てんか粉しんじつ吾子は無一物(wù) 鷹羽狩行
天瓜粉(天花(huā)粉)は、あせもの治療だけではなく、江戸時代から明治の初めにかけて、おしろいの代用(yòng)品としても使われていました。
シッカロールの誕生
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- 1906年(明治39年)発売、
日本初のベビーパウダー”シッカロール”
- 1906年(明治39年)発売、
江戸時代には、各家庭で米粉、牡蠣粉、葛粉、天瓜粉(天花(huā)粉)、ひき茶など自家調製された粉があせもの治療に使われていました。しかし、粉によっては、うじやしらみがついたり、かえってかぶれを生じたりすることがあることが『小(xiǎo)児必用(yòng)養育草(cǎo)(香月牛山(shān))』には記載されています。また、粒子は粗すぎないほうがよいなどの記載もあり、どの粉をどのようにして使うかなどの知識が必要とされていたことがうかがえます。この当時は、まだ、市販品は普及しておらず、あせもの予防として風呂あがりに使われることは少なかったようです。
このようにあせもの治療に使われていた天瓜粉(天花(huā)粉)などの種々の粉を、あせもの予防という日常的な使い方にして普及させたのが、和光堂薬局を開設した弘田長(つかさ)博士です。弘田博士は、東京帝國(guó)大學(xué)薬學(xué)科(kē)の丹波敬三教授と共にドイツ医學(xué)の知識を持って、あせもやただれにより有(yǒu)効な処方を作りあげました。医薬と薬學(xué)の博士二人が生み出した名作、シッカロールの誕生です。1906年(明治39年)のことでした。
当時のシッカロールの成分(fēn)は、亜鉛華40%、タルク40%、澱粉20%の割合でした。『女用(yòng)訓蒙図彙』(1687年)に記されているあせものくすりとして「はまぐり(無機物(wù))」と「うどん」の組み合わせが記されていますが、シッカロールの成分(fēn)においても、「タルク(無機物(wù))」と「でんぷん」が組み合わされたというのも必然性が感じられ、興味深いものがあります。その品質や効果の優秀性は顧客から折紙をつけられていましたが、明治39年の発売当初は、和光堂薬局の片隅にあった4畳半の小(xiǎo)部屋で原料を乳鉢で混合しながら細々と作られていました。
シッカロールの記載は、1912年(明治45年)の『小(xiǎo)児養育の心得』に初めて登場しますが、徐々に、お風呂上りにはシッカロールという習慣が普及し、湯上りの赤ちゃんの肌に塗られ、子どもに孫にと引き継がれていくことになります。
シッカロールの名称ですが、ラテン語で「乾かす」を表わす「シッカチオ」から名付けられました。明治末期につけられた名前としてはたいへんモダンなものでしたが、その名称は、『広辞苑』や『新(xīn)言海』に掲載され、天瓜粉(天花(huā)粉)やベビーパウダーよりもシッカロールといったほうが通用(yòng)するほど、一般的な言葉となっています。
シッカロールのデザインのうつりかわり
発売当時は金太郎の腹巻をした子どもがシッカロールを持っている図柄でしたが、その後は母親に抱かれた赤ちゃんにシッカロールをつけているポーズとなりました。同じポーズですが、母親の髪型と着物(wù)の図柄は時代の移りかわりを敏感に表しています。例えば、髪型は二百三高地から、大正中期の丸まげ、昭和の束髪、洋髪、パーマネントと変わっていきました。そして、赤ちゃんの写真をあしらったデザイン、現在の文(wén)字だけのデザインへと引き継がれています。
※和光堂とは旧和光堂(株)のことを示します。(2017年7月現在)