2.初代社長はメセナを推進

2.初代社長はメセナを推進

貧困家庭の子どもの健康を守るために育児参考館や保育園を

和光堂※の初代社長に就任した大賀彊二(おおがきょうじ)は、幼児期に貧困生活を経験し、またトルストイの人道主義に深く共鳴していた人でした。乳幼児死亡率の高さや、貧困家庭の乳幼児がおかれた状況に心を痛めていた大賀は、昭和2年、母親や乳幼児の保護と教育を行うために、私財を投じて育嬰協会を設立したのです。そして今でいうメセナを推進していきました。

乳幼児の保護と教育が何よりの急務だと考えた大賀は、昭和3年(1928年)、東京の淀橋に保育園・愛生園を開き、低所得家庭の子どもを中心に保育を開始しました。大賀が自ら園長を務め、登園時には入り口で園児を迎え、話を聞かせたり、一緒に遊んだりするなど、園児に大変慕われていたといいます。おやつにはお菓子と一緒に温かい牛乳を出すなど、園児の栄養にも配慮していました。また愛生園では、週1回乳幼児検診日を設け、園児だけでなく近隣の子ども達の健康相談や診療も行っていました。

愛生園の開設と同時に、お母さんへの育児教育を目的とした育児参考館も開設し、無料で一般に公開しました。育児参考館には、日本の小(xiǎo)児科(kē)の医學(xué)書や、出産や子育てに関する家庭用(yòng)品、伝統的なおもちゃなど、日本の育児に関するさまざまな資料が納められていたといいます。

さらに、育児参考館を利用(yòng)することのできない地方のお母さんたちのために、各地で育児展覧会や講演会も行いました。当時はあまり理(lǐ)解されていなかった妊娠・出産のメカニズムや注意事項、栄養指導など、知識の普及をはかっていきました。この活動を知った厚生省は、育嬰協会を日本で唯一の育児支援の機関として重要視するようになりました。そして育児展覧会や講演会、育児相談を厚生省や各府県が主催するなど、育嬰協会の活動に協力していったのです。

  • 育児参考館
  • 愛生園 卒園記念写真 昭和7年

さらに産育院や乳児院も

常に子どもの健康と幸せを重視していた大賀は、昭和8年(1933年)、東京に淀橋産育院を開設しました。昭和11年には、大賀が多(duō)額の寄付を行い、淀橋産育院の規模の拡大に取り組みました。産院はもちろん、小(xiǎo)児科(kē)病棟を拡張するなど、院内の設備を整えるとともに、東京帝國(guó)大學(xué)医學(xué)部と連携し、医療スタッフの充実も図りました。名前も育嬰協会病院と改め、産院のほかに乳児院を設置し、乳児の保育事業にも力を注いだのです。

また、所得が少なく医療費の支払いが難しい患者には、最低限の実費だけで診療を行い、場合によっては無料で治療を行ったともいいます。開設の翌年には、日中戦争が勃発し、病院器材の欠乏や物(wù)価の高騰などの困難もありましたが、そのつど、大賀の個人出資や和光堂※からの寄付によって乗り越えることができたのです。

  • 育嬰協会病院

さまざまなメセナに取り組んだ大賀ですが、施設を作るだけでは、一部地域の人々しか恩恵を得られないことに気づいていました。日本國(guó)内全體(tǐ)の乳幼児の幸せを望んでいた大賀は、印刷物(wù)での育児知識の啓蒙と普及を重視し、出版事業にも取り組みました。

育嬰協会の設立当初から機関誌『育嬰』を発行したほか、『母となる人ヘ』、『新(xīn)式育児日記』などの書籍を出版しました。また、昭和17年には、育嬰叢書として第1集『愛児の躾と叱り方』、第2集『幼児の科(kē)學(xué)教育とその指導』を発行しました。いずれも大変好評で、第1集は発行した年に、重版したほどだったといいます。

乳幼児と社会のために尽くした大賀でしたが、ありあまるお金を寄付していたのではありませんでした。会社の社長でありながら、自動車の1台も持たず、会社から病院、保育園へとステッキを片手に足を運んでいたのです。こうして蓄えたお金をすべてメセナにあてていったのでした。

  • 育嬰第一号(育児啓蒙の雑誌) 昭和2年発行

※和光堂とは旧和光堂(株)のことを示します。(2017年7月現在)

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